「日本文学(e-text)短編集」
「安井夫人」
■安井夫人 森鴎外 「仲平さんはえらくなりなさるだろう」という評判と同時に、「仲平さんは不 男だ」という蔭言が、清武一郷に伝えられている。 仲平の父は日向国宮崎郡清武村に二段八畝ほどの宅地があって、そこに三棟 の家を建てて住んでいる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持って いて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのであ る。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中一年おいて、四十 のとき帰国してから、だんだん飫肥藩で任用せられるようになったので、今で は田畑の大部分を小作人に作らせることにしている。 仲平は二男である。兄文治が九つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江 戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈が伸びてからは、二 人とも毎朝書物を懐中して畑打ちに出た。そしてよその人が煙草休みをする間、 二人は読書に耽った。 父がはじめて藩の教授にせられたころのことである。十七八の文治と十四五 の仲平とが、例の畑打ちに通うと、道で行き逢う人が、皆言い合わせたように 二人を見較べて、連れがあれば連れに何事をかささやいた。背の高い、色の白 い、目鼻立ちの立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、い かにも不吊合いな一対に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡が、兄は軽く、 弟は重く、弟は大痘痕になって、あまつさえ右の目がつぶれた。父も小さいと き疱瘡をして片目になっているのに、また仲平が同じ片羽になったのを思えば、 「偶然」というものも残酷なものだと言うほかない。 仲平は兄と一しょに歩くのをつらく思った。そこで朝は少し早目に食事を済 ませて、一足さきに出、晩は少し居残って為事をして、一足遅れて帰ってみた。 しかし行き逢う人が自分の方を見て、連れとささやくことはやまなかった。そ ればかりではない。兄と一しょに歩くときよりも、行き逢う人の態度はよほど 不遠慮になって、ささやく声も常より高く、中には声をかけるものさえある。 「見い。きょうは猿がひとりで行くぜ」 「猿が本を読むから妙だ」 「なに。猿の方が猿引きよりはよく読むそうな」 「お猿さん。きょうは猿引きはどうしましたな」 交通の狭い土地で、行き逢う人は大抵識り合った中であった。仲平はひとり で歩いてみて、二つの発明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護のもとに立 っていながら、それを悟らなかったということである。今一つは、驚くべし、 兄と自分とに渾名がついていて、醜い自分が猿と言われると同時に、兄までが 猿引きと言われているということである。仲平はこの発明を胸に蔵めて、誰に も話さなかったが、その後は強いて兄と離れ離れに田畑へ往反しようとはしな かった。 仲平にさきだって、体の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠 崎小竹の塾に通っていたときに死んだのである。仲平は二十一の春、金子十両 を父の手から受け取って清武村を立った。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に 着いて、長屋の一間を借りて自炊をしていた。倹約のために大豆を塩と醤油と で煮ておいて、それを飯の菜にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆」と名づけた。 同じ長屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気づかって、酒を飲むことを 勧めると、仲平は素直に聴き納れて、毎日一合ずつ酒を買った。そして晩にな ると、その一合入りの徳利を紙撚で縛って、行燈の火の上に吊るしておく。そ して燈火に向って、篠崎の塾から借りて来た本を読んでいるうちに、半夜人定 まったころ、燈火で尻をあぶられた徳利の口から、蓬々として蒸気が立ちのぼ って来る。仲平は巻をおいて、徳利の酒をうまそうに飲んで寝るのであった。 中一年おいて、二十三になったとき、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣っ ていても、才気の鋭い若者であったのに、とかく病気で、とうとう二十六歳で 死んだのである。仲平は訃音を得て、すぐに大阪を立って帰った。 その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀同庵の門下に籍をおいて、昌平黌に 入った。後世の註疏によらずに、ただちに経義を窮めようとする仲平がために は、古賀より松崎慊堂の方が懐かしかったが、昌平黌に入るには林か古賀かの 門に入らなくてはならなかったのである。痘痕があって、片目で、背の低い田 舎書生は、ここでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかった。それでも仲平は 無頓着に黙り込んで、独り読書に耽っていた。坐右の柱に半折に何やら書いて 貼ってあるのを、からかいに来た友達が読んでみると、「今は音を忍が岡の時 鳥いつか雲井のよそに名のらむ」と書いてあった。「や、えらい抱負じゃぞ」 と、友達は笑って去ったが、腹の中ではやや気味悪くも思った。これは十九の とき漢学に全力を傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残で、わざと 流儀違いの和歌の真似をして、同窓の揶揄に酬いたのである。仲平はまだ江戸 にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国せられ るとき、供をして帰った。 今年の正月から清武村字中野に藩の学問所が立つことになって、工事の最中 である。それが落成すると、六十一になる父滄洲翁と、去年江戸から藩主の供 をして帰った、二十九になる仲平さんとが、父子ともに講壇に立つはずである。 そのとき滄洲翁が息子によめを取ろうと言い出した。しかしこれは決して容易 な問題ではない。 江戸がえり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだろう」 と評判する郷里の人たちも、痘痕があって、片目で、背の低い男ぶりを見ては、 「仲平さんは不男だ」と蔭言を言わずにはおかぬからである。 滄洲翁は江戸までも修業に出た苦労人である。倅仲平が学問修行も一通り出 来て、来年は三十になろうという年になったので、ぜひよめを取ってやりたい とは思うが、その選択のむずかしいことには十分気がついている。 背こそ仲平ほど低くないが、自分も痘痕があり、片目であった翁は、異性に 対する苦い経験を嘗めている。識らぬ少女と見合いをして縁談を取りきめよう などということは自分にも不可能であったから、自分と同じ欠陥があって、し かも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れている。仲平のよ めは早くから気心を識り合った娘の中から選び出すほかない。翁は自分の経験 からこんなことをも考えている。それは若くて美しいと思われた人も、しばら く交際していて、智慧の足らぬのが暴露してみると、その美貌はいつか忘れら れてしまう。また三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、 昔美しかった人とは思われぬようになる。これとは反対に、顔貌には疵があっ ても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取る にしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳を きらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ばか りではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい。翁 はざっとこう考えた。 翁は五節句や年忌に、互いに顔を見合う親戚の中で、未婚の娘をあれかこれ かと思い浮べてみた。一番華やかで人の目につくのは、十九になる八重という 娘で、これは父が定府を勤めていて、江戸の女を妻に持って生ませたのである。 江戸風の化粧をして、江戸詞をつかって、母に踊りをしこまれている。これは もらおうとしたところで来そうにもなく、また好ましくもない。形が地味で、 心の気高い、本も少しは読むという娘はないかと思ってみても、あいにくそう いう向きの女子は一人もない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである。 あちこち迷った末に、翁の選択はとうとう手近い川添の娘に落ちた。川添家 は同じ清武村の大字今泉、小字岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の従妹 が二人ある。妹娘の佐代は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。そ れに器量よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼んでいる そうである。どうも仲平とは不吊合いなように思われる。姉娘の豊なら、もう 二十で、遅く取るよめとしては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではな い。豊の器量は十人並みである。性質にはこれといって立ち優ったところはな いが、女にめずらしく快活で、心に思うままを口に出して言う。その思うまま がいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面なしで困る」と言 うが、それが翁の気に入っている。 翁はこう思い定めたが、さてこの話を持ち込む手続きに窮した。いつも翁に 何か言われると、謹んで承るという風になっている少女らに、直接に言うこと はもちろん出来ない。外舅外姑が亡くなってからは、川添の家には卑属しかい ないから、翁がうかと言い出しては、先方で当惑するかも知れない。他人同士 では、こういう話を持ち出して、それが不調に終ったあとは、少くもしばらく の間交際がこれまで通りに行かぬことが多い。親戚間であってみれば、その辺 に一層心を用いなくてはならない。 ここに仲平の姉で、長倉のご新造と言われている人がある。翁はこれに意中 を打ち明けた。「亡くなった兄いさんのおよめになら、一も二もなく来たので ございましょうが」と言いかけて、ご新造は少しためらった。ご新造はそうい う方角からはお豊さんを見ていなかったのである。しかしお父うさまに頼まれ た上で考えてみれば、ほかに弟のよめに相応した娘も思い当らず、またお豊さ んが不承知を言うにきまっているとも思われぬので、ご新造はとうとう使者の 役目を引き受けた。 川添の家では雛祭の支度をしていた。奥の間へいろいろな書附けをした箱を 一ぱい出し散らかして、その中からお豊さんが、内裏様やら五人囃しやら、一 つびとつ取り出して、綿や吉野紙を除けて置き並べていると、妹のお佐代さん がちょいちょい手を出す。「いいからわたしに任せておおき」と、お豊さんは 妹を叱っていた。 そこの障子をあけて、長倉のご新造が顔を出した。手にはみやげに切らせて 来た緋桃の枝を持っている。「まあ、お忙しい最中でございますね」 お豊さんは尉姥の人形を出して、箒と熊手とを人形の手に挿していたが、そ の手を停めて桃の花を見た。「おうちの桃はもうそんなに咲きましたか。こち らのはまだ莟がずっと小そうございます」 「出かけに急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて来ました。たくさ んお活けになるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ」こう言ってご新造 は桃の枝をわたした。 お豊さんはそれを受け取って、妹に「ここはこのままそっくりしておくのだ よ」と言っておいて、桃の枝を持って勝手へ立った。 ご新造はあとからついて来た。 お豊さんは台所の棚から手桶をおろして、それを持ってそばの井戸端に出て、 水を一釣瓶汲み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにも かいがいしい。使命を含んで来たご新造は、これならば弟のよめにしても早速 役に立つだろうと思って、微笑を禁じ得なかった。下駄を脱ぎすてて台所にあ がったお豊さんは、壁に吊ってある竿の手拭いで手をふいている。そのそばへ ご新造が摩り寄った。 「安井では仲平におよめを取ることになりました」劈頭に御新造は主題を道破 した。 「まあ、どこから」 「およめさんですか」 「ええ」 「そのおよめさんは」と言いさして、じっとお豊さんの顔を見つつ、「あなた」 お豊さんは驚きあきれた顔をして黙っていたが、しばらくすると、その顔に 笑みがたたえられた。「嘘でしょう」 「本当です。わたしそのお話をしに来ました。これからお母あさまに申し上げ ようと思っています」 お豊さんは手拭いを放して、両手をだらりと垂れて、ご新造と向き合って立 った。顔からは笑みが消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だと思ってい ますが、ご亭主にするのはいやでございます」冷然として言い放った。 お豊さんの拒絶があまり簡明に発表せられたので、長倉のご新造は話のあと を継ぐ余地を見いだすことが出来なかった。しかしこれほどの用事を帯びて来 て、それを二人の娘の母親に話さずにも帰られぬと思って、直談判をして失敗 した顛末を、川添のご新造にざっと言っておいて、ギヤマンのコップに注いで 出された白酒を飲んで、暇乞いをした。 川添のご新造は仲平贔屓だったので、ひどくこの縁談の不調を惜しんで、お 豊にしっかり言って聞かせてみたいから、安井家へは当人の軽率な返事を打ち 明けずにおいてくれと頼んだ。そこでお豊さんの返事をもって復命することだ けは、一時見合わせようと、長倉のご新造が受け合ったが、どうもお豊さんが 意を翻そうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお勧めにならぬように」と 言い残して起って出た。 長倉のご新造が川添の門を出て、道の二三丁も来たかと思うとき、あとから 川添に使われている下男の音吉が駆けて来た。急に話したいことがあるから、 ご苦労ながら引き返してもらいたいという口上を持って来たのである。 長倉のご新造は意外の思いをした。どうもお豊さんがそう急に意を翻したと は信ぜられない。何の話であろうか。こう思いながら音吉と一しょに川添へ戻 って来た。 「お帰りがけをわざわざお呼び戻しいたして済みません。実は存じ寄らぬこと が出来まして」待ち構えていた川添のご新造が、戻って来た客の座に着かぬう ちに言った。 「はい」長倉のご新造は女主人の顔をまもっている。 「あの仲平さんのご縁談のことでございますね。わたくしは願うてもないよい 先だと存じますので、お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはりまいられ ぬと申します。そういたすとお佐代が姉にその話を聞きまして、わたくしのと ころへまいって、何か申しそうにいたして申さずにおりますのでございます。 なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ま すまいかと申します。およめに往くということはどういうわけのものか、ろく にわからずに申すかと存じまして、いろいろ聞いてみましたが、あちらでもろ うてさえ下さるなら自分は往きたいと、きっぱり申すのでございます。いかに も差出がましいことでございまして、あちらの思わくもいかがとは存じますが、 とにかくあなたにご相談申し上げたいと存じまして」さも言いにくそうな口吻 である。 長倉のご新造はいよいよ意外の思いをした。父はこの話をするとき、「お佐 代は若過ぎる」と言った。また「あまり別品でなあ」とも言った。しかしお佐 代さんを嫌っているのでないことは、平生からわかっている。多分父は吊合い を考えて、年がいっていて、器量の十人並みなお豊さんをと望んだのであろう。 それに若くて美しいお佐代さんが来れば、不足はあるまい。それにしても控え 目で無口なお佐代さんがよくそんなことを母親に言ったものだ。これはとにか く父にも弟にも話してみて、出来ることなら、お佐代さんの望み通りにしたい ものだと、長倉のご新造は思案してこう言った。「まあ、そうでございますか。 父はお豊さんをと申したのでございますが、わたくしがちょっと考えてみます に、お佐代さんでは悪いとは申さぬだろうと存じます。早速あちらへまいって 申してみることにいたしましょう。でもあの内気なお佐代さんが、よくあなた におっしゃったものでございますね」 「それでございます。わたくしも本当にびっくりいたしました。子供の思って いることは何から何までわかっているように存じていましても、大違いでござ います。お父うさまにお話し下さいますなら、当人を呼びまして、ここで一応 聞いてみることにいたしましょう」こう言って母親は妹娘を呼んだ。 お佐代はおそるおそる障子をあけてはいった。 母親は言った。「あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前の ようなものでももらって下さることになったら、お前きっと往くのだね」 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と言って、下げていた頭を一層低く 下げた。 長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲翁も意外だと思った。しかし一 番意外だと思ったのは壻殿の仲平であった。それは皆怪訝するとともに喜んだ 人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉んだ。そして口々に 「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播して、 誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉みの交じらぬただの怪訝であ った。 婚礼は長倉夫婦の媒妁で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれま でただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭を 破って出た蛾のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢の若い書 生たちの出入りする家で、天晴れ地歩を占めた夫人になりおおせた。 十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵に親戚故旧が寄り集まった ときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下が った。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女須磨子が生まれた。中一年おい た年の七月には、藩の学校が飫肥に遷されることになった。そのつぎの年に、 六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂の総裁にせられて、三十三になる仲平がそ の下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削という人が住まうことになって、 安井家は飫肥の加茂に代地をもらった。 仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これが お佐代さんがやや長い留守に空閨を守ったはじめである。 滄洲翁は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った 翌年である。 仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守 をした。翌年仲平は昌平黌の斎長になった。ついで外桜田の藩邸の方でも、仲 平に大番所番頭という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、ま もなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所がきまったら、 お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人 に教える決心をしていたのである。 このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰のよう な立派な人が出来た。二人一しょに散歩をすると、男ぶりはどちらも悪くても、 とにかく背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲腰に横たわる、安井三尺草 頭を埋む」などと冷やかされた。 江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、 昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸にいて、その後外桜田の上邸 にいたり、増上寺境内の金地院にいたりしたが、いつも自炊である。さていよ いよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があって から、はじめて五番町の売居を二十九枚で買った。 お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していた ときである。いわゆる三計塾で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあ って、階上が斑竹山房の扁額を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住す るとき、本国田野村字仮屋の虎斑竹を根こじにして来たからの名である。仲平 は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、 三女登梅子と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が 早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子と を連れて、三計塾にやって来た。 仲平夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊きをして、須磨 子が買物に出る。須磨子の日向訛りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごす ご帰ることが多い。 お佐代さんは形ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた 昔の俤はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来 た。もと飫肥外浦の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出 されて徒士になった男である。お佐代さんが茶を酌んで出しておいて、勝手へ 下がったのを見て狡獪なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋 ねた。 「先生。只今のはご新造さまでござりますか」 「さよう。妻で」恬然として仲平は答えた。 「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」 「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」 「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」 「なぜ」 「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところ を見ますと」 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、 得意の笊棋の相手をさせて帰した。 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家 を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻り縁とがついてい て、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八 畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは 霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家で ありながら、蔵書癖はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことは ないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧て、書き抜いては 返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、 書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであ った。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。 そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方という役を命ぜられた が、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際 目がよくなかったのである。 そのまたつぎの年に、仲平は麻布長坂裏通りに移った。牛込から古家を持っ て来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行 をした。浅葱織色木綿の打裂羽織に裁附袴で、腰に銀拵えの大小を挿し、菅笠 をかむり草鞋をはくという支度である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さ んがはじめて男子を生んだ。のちに「岡の小町」そっくりの美男になって、今 文尚書二十九篇で天下を治めようと言った才子の棟蔵である。惜しいことには、 二十二になった年の夏、暴瀉で亡くなった。 中一年おいて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入っていて、番町袖振坂に転居 した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。しかし乳が少 いので、それを雑司谷の名主方へ里子にやった。謙介は成長してから父に似た 異相の男になったが、後日安東益斎と名のって、東金、千葉の二箇所で医業を して、かたわら漢学を教えているうちに、持ち前の肝積のために、千葉で自殺 した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。 浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さん が三十五のときである。大儒息軒先生として天下に名を知られた仲平は、とも すれば時勢の旋渦中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。 飫肥藩では仲平を相談中という役にした。仲平は海防策を献じた。これは四 十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。 五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論をした。この年藩政が気 に入らぬので辞職した。しかし相談中をやめられて、用人格というものになっ ただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論をした。六 十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公 が亡くなられた年である。 家は五十一のとき隼町に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を 売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務を談ぜない ということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。 お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮から また床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四 になった年である。あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、 女子に、秋元家の用人の倅田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介 で、肥前国島原産の志士中村貞太郎、仮名北有馬太郎に嫁した須磨子と、病身 な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、 小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。歌子は母が亡くなってから七箇月 目に、二十三歳であとを追って亡くなった。 お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲 平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉から二里ばかりの小布瀬に、同 宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと 言って、木綿縞の袷を一枚持っている。おそらくはお佐代さんはめったに絹物 などは着なかったのだろう。 お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも 要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅にお りたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがり も、面白い物を見たがりもしなかった。 お佐代さんが奢侈を解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来 ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であったとは、 誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、 その望みの前には一切の物が塵芥のごとく卑しくなっていたのであろう。 お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言って しまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかし もし商人が資本をおろし財利を謀るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に 提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏 にしてそれに同意することが出来ない。 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目するまで、 美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと 感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるい は何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。 お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。 また二箇月目に徳川将軍に謁見して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられ た。仲平が直参になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌 出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、 高橋圭三郎という壻を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のち に須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙六 万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入り をした。 住いは六十五のとき下谷徒士町に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入って いて、麹町一丁目半蔵門外の壕端の家を買って移った。策士雲井龍雄と月見を した海嶽楼は、この家の二階である。 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。 まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中 の騒がしい最中に、王子在領家村の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須 磨子は三年前に飫肥へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻淑 子と、前年八月に淑子の生んだ千菊とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、 隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総にいた夫には逢わずに死 んだのである。 仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈を彦 根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七 十三のときまた土手三番町に移った。 仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との 間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折したあとは小太郎の二男 三郎が立てた。 大正三年四月
メルマガ「日本文学(e-text)全集」より
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